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採録レポート「『分断』をケアする:インドネシア文化から考える対話の未来」朝日地球会議×国際交流基金特別共催対談

インターネットやSNSの登場は、言論を多様化したのでしょうか――?

生成AIの登場が「正解」や「正論」を求める風潮にさらに拍車をかけ、SNS空間は議論の勝ち負けを競う場と化し、社会の分断は深まるばかり。多様で公正な民主主義のもと、他者との共存に求められる「対話」とは?インドネシアの当てどのない対話文化「ノンクロン」を活動の根幹に据え、世界で活躍するインドネシアのアートコレクティブ「ルアンルパ」と、気鋭の哲学者・朱喜哲さんをゲストに、朝日新聞Re:Ron編集部の吉村千彰記者をコーディネーターに迎えて、社会をケアする「対話」をともに考えました。

対談概要:

【配信イベント】
朝日地球会議2025「あなたと考える 激動の世界と地域の未来」
【配信開始日】
2025年10月31日(金)正午~
【タイトル】」
「分断」をケアする:インドネシア文化から考える対話の未来
【登壇者】」
朱喜哲(哲学者)/ファリド・ラクン(ルアンルパ)/アジェン・ヌルル・アイニ(ルアンルパ)/吉村千彰(朝日新聞Re:Ron編集部)
【通訳・翻訳】」
廣田緑/岩田晶子
【オンライン視聴無料・要登録】」
http://t.asahi.com/wpok (2025年1月15日まで)

朝日新聞 吉村千彰記者:
【皆さん、こんにちは。今日は、分断が進む社会をケアする対話とはどんなものかについて考えていきたいと思います。パネリストを紹介します。インドネシアのアートコレクティブ「ルアンルパ」から、建築家やライターなどジャンルを超えて活躍するファリド・ラクンさんと、マネージャーやプロジェクトオフィサーとしてアートプロジェクトに関わるアジェン・ヌルル・アイニさんです。アートコレクティブとは芸術家集団と訳されますが、社会的なつながりを意識した芸術活動を行うグループとして最近捉えられている概念です。お二人はルアンルパに所属し、ドイツで5年に一度開催される国際美術展「ドクメンタ」で、2022年にアジア出身者で初めて芸術監督を務めました。

ルアンルパ ファリド・ラクン:
ジャカルタからこんにちは。ファリドとアジェンです。よろしくお願いいたします。
吉村:
続いて、哲学者で大阪大学招へい准教授の朱喜哲さんです。専門はプラグマティズム言語哲学と、その思想史。企業にも勤める哲学者として、データ倫理とビジネス倫理にも取り組んでおられます。
哲学者 朱喜哲:
アメリカの哲学であるプラグマティズムを中心に、人々の会話や言葉遣いについて研究しています。よろしくお願いします。
吉村:
まず朱さんに伺います。社会の分断やSNSにおける「論破」文化など、猛々しい印象のある今の言論状況をどう見ていますか。
朱:
SNSの登場で、誰もがパブリックな言論を発せられるようになりました。ただ、言葉が多様になったのかというと、むしろそうではないと思っています。過去の発言まで掘り起こされ、失言や鍵付きアカウントでの発言も晒されうる環境。比喩的に言えば、公共的な光であらゆる言説が照らされています。人々は常に気を張って言葉を使わないといけなくなり、その裏返しとして、積もり積もった鬱憤が身も蓋もない本音を言ってくれる政治家への支持として噴出してしまう。パブリックな光に照らされて、プライベートの暗がりが失われてしまっていることが、今の言論の息苦しさを生んでいるのではないかなと。
吉村:
「パブリックな光」について もう少し詳しく伺いたいです。
朱:
リチャード・ローティというアメリカの哲学者が、パブリックなものとプライベートなものを分けて、「バザールとクラブ」という比喩を用いています。公共的なものはバザール(市場)的な空間。市場で生計を立てて暮らしを支えていくため、嫌な客がいても作り笑顔を作ったり、取り繕ったりしながら、お互いなんとかやっています。みんな緊張するけど、お互いに安全が確保されている。でも、疲れてしまう場所でもあります。一方、似たような人たちが集まって本音で話すことで、昼間のガス抜きができたり、明日がんばっていく活力が得られるようなクラブ的な空間もあります。私的なクラブと公的なバザールの両方が必要だと言ったのがローティです。今は、クラブ的な場所を作りづらくなっている。クラブはある種の「正しくなさ」も含んでいます。今は「正しくなさ」を許容できない環境で炎上してしまう。本当はなかったことにならない「正しくなさ」を、みんなが隠さなきゃいけなくなっている。すると鬱憤として溜まって噴き出しています。ローティは「トランプ現象」を予言したとして知られていますが、そうした鬱憤が溜まっていく社会で、「ストロングマン(強い男)を待望する声が出てくる」と、トランプ登場よりも以前から言っていたのでした。
吉村:
「クラブ的な存在」が重要なポイントになってくるかと思いました。
朱:
ローティは「カンバセーション(会話)」が大事だと説きました。理性的な言語による「バーバル・コミュニケーション」は、言葉の意味の伝達や合意形成です。たとえば、ダイアローグは「ロゴス」に由来し、言葉のやりとりを意味します。しかし、カンバセーションは言葉じゃなく、ラテン語で「相対する」ぐらいの意味合いです。必ずしも言葉を使うわけでもなく、ただ「他者と一緒にいる」ことを指しています。それは人間以外の哺乳動物がやる毛繕い、グルーミングのようなものと考えてもよいでしょう。他者との共存をどう楽しむか、せめてやり過ごすのかが最小限の「会話」だと思います。前述した「正しくなさ」まで含めたクラブ的な空間をどう作るかという時に、インドネシアのノンクロン(nongkron)という文化や芸術の役割や実践について、ルアンルパのお二人にお聞きしてみたいです。
吉村:
インドネシアには「ノンクロン」と呼ばれる、特に結論を求めない、雑談的な会話文化があると聞いています。どんな風に行うものなのでしょう。

ファリド:
ノンクロンは市場でも、最近は家の中でも、パブリックとプライベートな空間のどちらでも起こります。橋に例えられるかもしれません。たとえばマーケットでのノンクロンがクラブのような状態に、クラブでのノンクロンがマーケットのそれになることもあります。本質は「誰かと共に時間を潰す」ことであり、そこに目的はないわけです。目的があったら、それは会議になってしまいます。かつてスハルト政権下のオルデ・バル(新秩序)の時代には、ノンクロンは生産性のない活動だと考えられていました。「時は金なり」で、生産性のないものは支援する必要のないものというわけです。ですから当時ノンクロンという行為は政府から睨まれていました。再びそんな状況にならないことを願っています。
ルアンルパ アジェン・ヌルル・アイニ:
ノンクロンを理論的に説明することは難しいです。ノンクロンは自然発生的なもので、実際に経験しなければわからないでしょう。社会の多様なレイヤー、さまざまな空間で起こります。こちらのノンクロンとあちらのノンクロンがひとつになり、新たなノンクロンが生まれることもあります。そこでは言語も冗談もユーモアのセンスも異なるかもしれません。ですから、ときには認識が一致しないこともありますが、スタイルは同じです。誰でもできる、インドネシアでは日常的なことです。ただ時々文脈が異なることもあるというだけです。
吉村:
集まって無駄話する会話文化は、日本でも最近なくなってきて、「無駄話するな」と会社でも言われます。昔は「井戸端会議」という雑談文化があって、似ているかなと思いました。クラブでもバザールでもどちらでも行われる「ノンクロン」を、ルアンルパはどのように位置づけて、活動に取り入れられているのでしょうか。
ファリド:
オフィシャルに「ノンクロン」という語を掲げたプログラムは、ドイツ・カッセルの芸術祭「ドクメンタ15」で実施しました。我々はドクメンタ15を「ルンブン(共同米倉)1」と呼んでいます。この芸術祭に参加したルアンルパなど複数のコレクティブで作る複合コレクティブ「グッドスクール」が行ったカリキュラムで、期間は2ヶ月ほど。このカリキュラムは、3つの柱から構成されていました。”Friend-making”(友達を作ること)、”Learning from friends”(友達から学ぶこと)、”self-organizing”(自己組織化)です。目的がないものがノンクロンなのに、カリキュラムにするというのはおかしな話ですが、伝えたかったことは、教育システムも上から下への操作だけでなく、教育を受ける側が教える側よりも役に立つ場合もあるということです。すべてのことは相互に学び合うという点を伝えたかった。ですから実践の在り方はとてもオープンでした。目標はたったひとつ、それまで知らない者同士だった参加者が、このプログラムによって結束することです。例えばグループをつくる、共同プロジェクトを行う、プログラム終了後も交流を続ける、新たなイニシアティブを結成するなど、どのような形でもいいのです。「自己組織化」とは、自分自身で決めていくことですから。

アジェン:
私とファリドは設立当時の世代ではありません。けれどもルアンルパに参加する中で、様々なことを聞いたり直接経験しました。ルアンルパ設立メンバーは1998年当時、スハルト政権後半の不安な時代にちょうどまだ学生か卒業して間もない年齢でした。ルアンルパが生まれたのは、まさにノンクロンからでした。アイデアや運営に関する様々なことは、実はノンクロンから始まっています。アイデアは会議中ではなく、むしろノンクロンしている時に浮かぶものです。決めなければいけない時には出ないアイデアも、会議から解散され「いったんノンクロンしよう」と休憩したときに浮かんできます。たとえば学生のためのフォーラム「ジャカルタ摂氏32度」や「OKビデオ・フェスティバル」、「ルアンルパ・レコードフェスティバル(RRRECT FEST)」。これらのイベントは、考えて生まれたものではなく、ノンクロンをしていて自然にアイデアが生まれたものです。
ファリド:
ノンクロンはルアンルパの専売特許ではなく、昔から誰もが行ってきたことです。他に「ルンブン(米倉)」という言葉も一般的な用語で、我々の実践を説明する際に使っています。ノンクロン、ルンブン、エコシステムは、コレクティブやその他の集まり、共同体について説明するのに適しているからです。場所が異なれば、社会のそれぞれの層が異なる方法でノンクロンするでしょうし、必ずしも全員が言語でコミュニケーションをとる必要もありません。言葉でのやり取りがなくても理解し合っているといった例もありますよね。それはもうノンクロンとしてはかなり高いレベルのものですが、人々に不満があった際にそのストレスから解放されるメカニズムが多様に存在しているから、その不満がノンクロンの場で他者に伝えられ受け入れられる。習慣としてもっている信頼感。場所に対する信頼感。あるいは頻繁に会う人々に対する信頼感。その信頼感こそがノンクロンで築かれるべきものなのです。方法は人によってそれぞれですしその場所も様々です。コーヒーを飲みながら、ビールを飲みながら、伝統の椰子酒を呑みながら、煙草を吸いながら、なにも口にしないで道路の脇で始まるかもしれません。あるいは屋台でも路地の曲がり角でも、どこでだってノンクロンはできます。
アジェン:
ノンクロンは習慣や伝統とも関わっているので、地域によっても違いがあるでしょう。先ほども言ったように自然発生的に起こるので、その場の雰囲気や地域、場所、人によって様々なスタイルがあります。ノンクロンはルアンルパの専売特許ではなく、一般的な用語、伝統的な行為であり、インドネシア人の暮らしとは切り離せないものです。
吉村:
素晴らしい雑談文化というか、雑談からアイデアが生まれるのは、すごく豊かな感じがします。ノンクロンは融通無碍な感じで、広がりのある会話文化だと思いました。朱さんはどう評価されましたか。

朱:
私が研究しているプラグマティズム言語哲学では、「人間が言葉という道具を自由自在に使う」ではなく、むしろ「どんな言葉を使うかによって、自分が作られる」という発想をとります。例えば、ビジネスパーソンとして洗練されていくというのは、ビジネスの言葉遣いを巧みに操れるようになることです。そのこととビジネスパーソンとして一流になるってことは実は区別できない。言葉遣いはそれぐらい私たちの在り方を決めてしまうし、社会を変えてしまうところもある。現代社会に生きていると、すごく合目的的で、何か合意を形成したり決断・決定したりとかに慣れきってしまって、そうした言葉遣いばかりを使っている。だから私たちが雑談、つまり目的がなく、あてどなく喋る、こういうボキャブラリーを使うには学び直すためのカリュキュラムや学習がいるような気がします。そういうヒントをぜひ学びたいです。
吉村:
結果を求められますよね、日本では常に。その必要性がないところから広がっていくノンクロン。日本の現状に対してヒントをいただけたらと思います。
ファリド:
ヒントと言われると少々難しいですね。ノンクロンはすべての人が、どこにいてもどんな時でもそれぞれの形で行うことができます。例えば、たくさんのコーヒー屋台がある都市であれば、伝統的なコーヒー屋台でノンクロンするでしょう。最近のジャカルタ南部(ルアンルパの拠点があるエリア)では、この地域特有のコーヒー屋台がノンクロンの場になっています。若い世代にとってはソーシャルメディアとの接点が多いので、ノンクロンに求めるものが違うこともあるかもしれません。ヒントは国や世代によっても違い、ある場では機能しても、別の場所で機能するとは限りません。「ヒント」に対する明確な答えがなく、申し訳ありません。
アジェン:
ノンクロンは自然発生的なので、義務的に後押しするというのは少し違うのだと思います。とても自然に気づかないうちに起こっているというのが本質なのでしょう。みんな気づいていないだけで、本当はもうノンクロンしている。おそらくそんなことなのだと思います。
朱:
日本社会はどうしても合目的的な話し方に慣れすぎてしまっている。その学びをそぎ落とす「アンラーン(Unlearn)」という言葉があります。学んだものをどうやって一回捨てるかが問われているのかもしれません。企業でもコーヒーコーナーを作ってみて雑談を生もうという話があります。コーヒー屋台のお話もありましたが、ただ話すとか雑談って難しいので、例えば日本だとよく「一杯一緒に行きましょうか」とか、お酒やコーヒーなど何か嗜好品を介しての会話ができるのかなと。例えばアートや芸術を一緒に見たり、それについて喋ることもきっかけになるのかなと。芸術の役割、あるいは広く「正しくなさ」を含む嗜好的な趣味的なものとノンクロンや雑談の関係性について、ぜひ聞きたいです。
ファリド:
ルアンルパは先日結成25周年を迎えました。あらためて気づいたことは、国家によるシステムやそのほかのシステムが健全に機能していないからこそ、我々が存在しているということでした。もしシステムが機能していたならルアンルパの存在と活動は必要なかった。ノンクロンもそうだったかもしれません。インドネシア国家の誕生前からノンクロンはすでに存在していたのですが、システムが健全に機能していたなら、ストレスや問題を解消するために、ノンクロンすることはなかったかもしれません。ストレスを抱えて不安定な時、マーケットの喧騒に身をゆだねてノンクロンすれば気分が落ち着いてくるのです。システムが正常に機能すれば、それは必要なくなるでしょう。ただ、問題は、信用されていたシステムが再び機能不全になった時です。その時、これまで使ってきた戦略や方法が、ノンクロンも含めて実践することができなくなります。この点がジレンマです。なので、そもそも目の前のシステムを100%は信用していないので、ノンクロンは必ず続けていきます。「嗜好品」については、インドネシアは喫煙者の多い国ですが、非喫煙者が喫煙者とノンクロンすることもあります。嗜好品はノンクロンに大きな影響を与えません。たとえば飲酒。酒が社交の潤滑油であることは確かです。社交の助けにはなるでしょうが、最重要条件ではありません。活発なノンクロンの助けになるというだけのことです。このことが自覚できれば、「真のノンクロン」への第一歩を踏み出したと言えるでしょう。
吉村:
嗜好品が手助けになることもあるということですね。横のつながりというのも大切なキーワードでしたね。会話を「ケア」という観点で捉えた時の重要性について伺いたいと思います。「正論」に疲れている人もいると思います。そんな現代社会で疲れた人を癒す、ケアするという点で、会話の重要性について伺います。

朱:
「ケア」という言葉が注目されています。2025年に京都賞を受賞したキャロル・ギリガン氏は「ケアの倫理」という考え方で、世界的な倫理の流れを変えたと思います。冒頭に「バザールとクラブ」というメタファーを用いましたが、西洋哲学では伝統的に古代ギリシャ以来、公共的なものはアゴラ(広場)として位置づけました。市民が自由に政治に参加することができる政治のためのパブリックな場所が広場で、そこへのアクセスを奪われて家庭に押し込められていることを、「奪われている状態」という意味で「プライベート」と言いました。広場に集まれるのは、古代ギリシャでは成人男性の一部の特権階級でしかない。家庭で女性や奴隷階級の人たちから大いなるケアを受けたことによって、一人前の自立した個人のように振る舞っている。でも本当は、そのケアこそ大事なんじゃないかというのが、「ケアの倫理」のポイントです。ローティの「バザールとクラブ」は両方とも商業的な場所、お店です。どちらも一種のケアが要ります。店主がお客さんをもてなす。あるいは客もちゃんと店主を気遣いながらやりとりを持続可能にする。ケアの場面が可視化されやすいのが、この比喩の良いところかもしれません。強調したいのは、会話とは、ノンクロンと同じように意思疎通をしたり合意形成をするコミュニケーションだけじゃなくて、毛繕い的だったり、人間という言葉を持ってしまった哺乳動物が緊張を緩和させるために、言葉を使っているところもあるはずです。そういう言葉をケアの観点で捉える眼差しが重要視されていると理解しています。ケアし、ケアされる関係というものは、ずっと最初からバランスが取れてたり、フェアであることはあまりない。常にどちらかがもらい過ぎているからバランス感覚が求められる。ケアの互恵性を確認し、バランスを取り続けようとすることが、非常に大事ではないでしょうか。
吉村:
インドネシアでもソーシャルメディア上でぎすぎすしたやりとりもあると思いますが、その中でノンクロンの役割や会話によるケアをどう考えていますか。
ファリド:
先ほどの「ケア」の話題に戻りますが、我々がアートコレクティブとなったのは、システムが機能不全に陥ったからです。政府に頼ったり完全に信頼することはできない。アートコレクティブを含め、芸術実践も自分たちでケアしなければいけません。互いに支え合わなければ誰がやるのか、頼れるものは何もないのです。つまりケアを含む我々を取り巻くすべての問題について、ずっと前から完備する必要があると感じていました。これを「エコシステム(生態系)」と呼んでいます。エコシステムとは多くのプレイヤーが存在している状態のことです。健全であれば、プレイヤーは互いに助け合います。そんなに大きなものを想定しているのではなく、村よりも少し大きいくらい。ジャカルタのアート領域のエコシステムはそのくらいのサイズで、関係者も知った仲間たちです。アートの実践が行われる前後には、その背後に多くの支えがあります。この状態が先ほどの「ケア」のひとつだと言えるのではないでしょうか。ルアンルパの現在の実践というのは、我々を取り巻く問題を表面化して議論し、その問題が「殻の中の棘」のように、つまり爆発を待つ爆弾と化すことを防ぐために解決策を模索することです。
アジェン:
いま、我々が実践しているルンブン(共有米倉)の価値観からも、ケアの方法を見ることができるかもしれません。我々はジャカルタを拠点とした複数のコレクティブと協働して新たなエコシステムを構築しました。ここではルンブンの価値観に則り、相互扶助としてのエコシステムを運営しています。我々の軌跡をケアする方法のひとつだとも言えるし、我々の言語や対話もケアされていると言えます。
朱:
「話し言葉」というのがすごく大事じゃないかという気がしました。ジョン・ロールズという20世紀を代表する政治哲学者が、公民権運動やベトナム戦争に揺れる70年代の米国で「正義」を改めて考える際に“Justice as fairness”と言いました。「正義って公正さなんだ」と。書き言葉だと「エクイティ(equity)」と言います。企業がよく言う”DE&I” “Diversity, Equity & Inclusion”のエクイティですね。でも、話し言葉ではあまり使わない単語です。そうじゃなくて、”That’s not fair!” とか ちょっと「ずるいよ」みたいに直感的に使う形容詞ですね。その名詞形がフェアネス。ロールズはそこまではっきり書いていませんが、話し言葉で感覚に訴える、「なんかちょっとそれおかしくない」とパッと言える会話の場所にこそ、ケアのきっかけや不均衡さへの気づきがあるのではという気がしています。ルアンルパが会話をベースにやっていることの良さは、もともとバランスを欠いた社会の状態を可視化しやすいことなのかなと思いました。
吉村:
私たちが発言するときに、公的な場か私的な場みたいなのは常に意識していますが、もうちょっと「あわい」の場があると「ケア」にもつながりやすいのかなと。インドネシアには「ノンクロン」や「ルンブン」、特にルンブンは共有地(コモンズ)的な感じがします。インドネシアにはケアする文化的・社会的な背景があるのかなといましたが、そのあたりはいかがでしょう。

ファリド:
我々の国でかつて成功したことがなく、今も挑戦し続けていることは完全な近代化です。つまり、自分自身を100%信頼し、すべて自分で責任をもつということです。個人と個人がそれぞれに自立することを、近代化と言っています。これは今までずっと試みられているのに、まだ成功していません。だから我々は、ルンブンの価値観を実践しているのです。米を備蓄する建物とも解釈できますが、共同体によって共有される空間管理の方法ともいえます。共同体の全員に備蓄管理の権利があり、個人も家族も広義には社会の一員として、また隣人として共同で米倉を管理します。倉の備蓄(資源)が満たされると余剰が生まれます。そこで地域ごとの米倉をマッチングさせ、相互でどのように資源を提供し合えるかを考えるのです。このロジックは、本来の米倉における米の備蓄システム以外でも通用します。ジャワ的というか西インドネシア的な発想です。我々コレクティブが話す「資源」というのは、具体的なモノだけでなく、メンバーの能力も含まれています。例えばアジェンの能力が別のコレクティブで役立つなら提供できます。その逆の可能性だってある。こうしなければ我々はとても脆弱で、消滅してしまう。これまでの実践の結果さえも失うのです。自分たちが弱いことを認識しているからこそ、「ルンブン」「ノンクロン」「エコシステム」そして、我々が信じる教育システムを含むすべてを実践しています。いつかルアンルパがなくなっても、エコシステムに残された資源は他のコレクティブが継続し、運営できる仕組みです。
アジェン:
先ほど説明したように、ルアンルパの実践はとてもおもしろいものだと思います。昔から生活に息づいていた米倉の価値観をエコシステムの側面から見直したのです。米倉のもつ価値には寛大さ、再生、ユーモア、透明性と充足性……など7つあります。コレクティブの活動の中で仲間たちとこの価値観を共有しています。
朱:
お互いに頼り合うことによって、初めて個人が誕生する。今、必要な話ではないかと思いました。インドネシアは数々の島から成り立っている国家で、宗教、言語、文化が多様である。多様性の感覚が当たり前にあるからこそのノンクロンであると。こういう感覚がもしかしたらあるのかなと。日本社会では、わずかな移民、あるいは外国人労働者しかいない。少ないからなのか、過度に恐れたり、疲れてしまったり、反発がくすぶっているように感じられます。先の選挙でも排外主義的な言説が見られたりしました。どうやったら多様性を当たり前のものにできるのか。あるいは多様性をどうやったら面白がったり、「ことほぐ」といいますか、祝ったりできるのか、伺ってみたいです。

ファリド:
我々の島々では、異なる言語、異なる伝統、異なる信仰が多民族によって守られています。さらに加えるなら我々の国には安定性がありません。自然さえも安定はしていません。自然災害の脅威は、常に隣り合わせです。当然我々は、安定が永遠に維持されるなどという神話は、長い間信じてきませんでした。毎日毎日をそれらの脅威と向き合って過ごしていく。そんな生き方になっています。そして慣れ過ぎて緊張が緩んでしまっている。これはリスクです。
アジェン:
ルアンルパとグッドスクールは、インドネシアの他の地域で活動するコレクティブとのネットワーク構築「ルンブン・インドネシア」を試みています。現時点で仲間は12以上、おそらく15のコレクティブが集まっています。「ルンブン・インドネシア」設立の目的は、このネットワークを通じて互いに知り合い、理解し合い、支え合うことです。すでにインドネシアの隅々にまで広がっていて、仲間はスラウェシ、スマトラからパプア、東ヌサトゥンガラ、そしてもちろんジャワ島の都市、ジャカルタ、バンドゥン、ジョグジャカルタ、スマランにいます。ネットワークはカリマンタンにまで及び、広大なインドネシアで彼らはいま何をしているのか、何を必要としているのか、どのように互いの資源を交換できるか、どのようにコラボレーションを継続できるか話し合っています。これからも仲間と協働を続けるために、互いの近況を確かめ合い、互いを支え合い続ける実践です。
吉村:
国の安定性や自然災害でいうと、日本はとても地震の多い国で似ています。インドネシアがリラックスし過ぎなのに対し、日本はちょっと緊張しすぎなのかもしれないですね。過剰な恐れが、社会の雰囲気につながっているかもしれない。上下のつながりじゃなく横のつながりということも印象的でした。また、会話やネットワークがもつ可能性というのを考えさせられた時間でした。

朱:
「近代的な個人」を確立しようというプロジェクトを、今も続けているということが印象的でした。近代的自己とは、かつては何者にも依存しない自立した個人だとしていた時期がありましたが、アゴラと家庭の話がそうであるように、そう見えるだけ実は裏側では、多大なケアによって成り立たせて存在していたのではないか。小児科医の熊谷晋一郎さんは、「自立とは依存しないことではなくて、たくさんの依存先を持つことだ」と言います。たくさんのものに支えられて自分を支える。その共助的なケアの関係の中で、これからの自立を考えた方がいいのではないかとおっしゃっています。そして、あらためて私たちの日本はこの意味で「近代化」できたのか。かつて戦前の日本は、アジアへの侵略戦争や植民地経営などで「ケア」を強いることによって、一人前の立派な国のように振る舞ってきたのかもしれません。敗戦して、その立場を失い、日本はずっとアイデンティティを模索し続けているのかもしれません。隠蔽され、押し付けたケアによって成り立つ「自立」じゃなく、お互いが支えあったり、オープンに弱みをさらけ出し合ったりするような、今日的な「自立」をどう実現するのか。ノンクロン的なカルチャーですよね。どうやってお互いにバランスをとりながらやっていくのか。そういう現代的な意味での自立した個人をつくる、そういう社会を目指すということを考えるきっかけになりました。
吉村:
ありがとうございます。ではルアンルパのお二人からも。
ファリド:
プライベート空間、公共空間、ケア、対話についての話題は大変面白かったです。朱さんがいつかインドネシアにいらっしゃるのを待っています。インドネシアを巡るために3ヶ月ジャカルタで滞在してみてください。他のコレクティブも紹介しますよ。
アジェン:
先ほど朱さんが触れた「自立」について少し話させてください。自立性・独立性はルンブンの価値観にも共通しています。自立というのは実は「誰かに頼れることを知る」ことでもあります。我々がもつ自立の認識は、市場の混乱、国家の混乱、その他の問題からも独立していることを指します。もちろん我々の実践が適さないのであれば、手放してみる。それも自立です。本当にこのセッションにお招きいただき時間をいただき、ありがとうございました。日本かインドネシアで是非この続きを行いましょう。
吉村:
ありがとうございます。まさにノンクロンから、今日のテーマである「『分断』をケアする:インドネシア文化から考える対話の未来」に開けていくような感じがしました。
朱:
おっしゃったように会話、「話し言葉」で表現するってすごく大事だと思います。私たちは他者の気配に敏感な能力を持っているはずです。言葉という概念抽象的なものを使いこなせるようになりましたが、言葉だけが跋扈するSNSみたいな空間では人の顔色が見えない。それに慣れてしまうと本来あった人の気配を感じて、ケアの目を持つような、嗅覚みたいなもの、感覚みたいなものが衰えてしまっているのかもしれないと改めて気づかされました。やはり生身の身体がそこにある人と会話しなければ、磨くこともできないかもしれないなと思わされました。私も生身の身体で、インドネシアに行ってお会いしてみたい、地酒なんかも飲んでみたいなと思いました。

吉村:
ありがとうございます。繋がっていける会話、そういうもののあり方についてこれからも考えていきたいと思います。パネリストの皆さん、どうもありがとうございました。